評価B

Dチームに参加させていただいた中宮です。
皆様の多種多様なご意見やアイデアを大変興味深く拝聴させていただきました。
…と言いながら、私の方はかなりズバズバとみなさんのお話を遮って発言したりしましてご不快に感じられた方がおられましたら申し訳ございませんでした。特に、ファシリのほずみさんには色々とご苦労をおかけいたしました。

本の内容自体は、非常にパラダイス的なおはなしが主で、まるで先日初参加させていただき大感動して長文の投稿をコミュにさせていただいたバルガスリョサ「楽園への道」にも通じるような楽園探し的内容でした。それ自体は私も非常に賛同できる未来予想図ですし、速いところそういう未来が到来してくれればいいなとは思います。例えば私は、フリーライター&SEという仕事上家で一人で仕事することが殆んどなため、複数人でオフィスを借りて異業種間コミュニケーションによりアイデアなどのアウトプットを活性化するという「コ・ワーキング」の例なんて非常に興味があります。現在遂行中の自炊プロジェクトが完了して書庫として埋まっている部屋が空いたら、個人的にそのスペースを貸しだしてやってみようかとか考えているほどです。また、洗濯時間を楽しくするコインランドリー「ブレインウォッシュ」も、近所にあれば絶対に行きたいサービスです。特に名古屋は、コメダなどに見られる喫茶店文化が盛んで、朝っぱらから近所のオバチャンたちが喫茶店にモーニング目当てで集まりダベるというのが一般的ですので、このビジネスはかなり有望なのではないかと思いました。
まぁそういう薔薇色な面は、みなさん同様にお感じになられたでしょうし私が言わなくても他の方々が十分指摘してくださるでしょうから、ここでは、本には書かれていない危険性や危惧などについて書かせていただきます。大学・院を経済学部と工学部両方出たもので、どうしてもこの本のそういう触れられていない「アラ」が気になって仕方が無いものですから…。

まず、この本は大前提として、現代社会の価値観であるGDPを基準とした成長主義を否定しています。P275で「だがGDPは、たとえそれがポジティヴなものでも、経済価値のない貢献をあっさりと切り捨てる。その代わり、GDPはネガティブで有害な生産力を反映する」という指摘自体は、経済学的にも全くそのとおりですし、現代の経済学界においては特にその点を反省し、本でも触れられていたアマルティア・センといったような経済学者を中心にして、GDP基準の成長基準をなんとか転換して行こうという動きがあることも事実です。ブータンなんかでは国民総幸福量(GNH)なんて基準が導入されていますし、センの研究でも、GDPが非常に低い低開発国なのに国民の寿命や幸福度などが高いスリランカの例などが報告されています。
しかし、こうした「GDP」やそれを基準にした「成長」を否定する考え自体は、特に先進国においては戦後一貫して存在し時にはブームとしてもてはやされたものですし、そしてそのたびにブームは潰えて挫折し否定されるという事の繰り返しでした(低開発国でそのようなブームは殆ど見られず成長と発展が声高に叫ばれているのは、先進国の人間としては忘れてはいけない事実でしょう)。例えば70年代から80年代にかけて「成長の限界」をキーワードにもてはやされたローマクラブなどは、現代の環境保護運動ロハス運動などの先駆けですし、もっと言えば現代の様々な運動の殆んどは、過去に否定され消えて行ったそうした動きの焼き直しに過ぎません。今日における新しい動きと言えば、「ヴァーチャルウォーター」や「フードマイレージ」などといった「科学」や「数学」を偽装し経済合理性を無視して(実は環境に帰って悪影響を与える)環境保護思想が出てきている点と、もうひとつはこの本のように、インターネットなどのITによって取引費用が低下したことを利用して、過去に失敗したり消えて行った運動を再生しようという点でしょうか。
ここで問題となるのは、ITを利用したからと言って、この本が主張しているような薔薇色なシェア社会が実現するかと言う点です。これについてはまず、GDP・成長否定の観点から見てみたいと思います。
この場合、ソフトとハード(この使い方はIT用語的にも経済学用語的にもちょっとおかしいのですが、分かりやすいので便宜的に使わせていただきます)の二つに分けて考えてみることが重要だと思います。どういう事かというと、例えばこの本で例として出されていたおもちゃや子供服などの「ハード」は、一度に一人しか使えません。いくらみんなで必要なときだけ「シェア」すると言っても、誰かが「シェア」している間は他の人間は使えません(経済学的に言うと私的財に近いでしょう)。一方で、インターネットを利用した音楽や映画などの「ソフト」のダウンロードサービスは、誰かがある音楽をダウンロードして借りた・買ったからと言って、その間別の誰かが借りられなくなる・買えなくなるわけではありません(経済学的に言うと公共財に近い概念かもしれません)。この違いはGDP至上主義的には非常に重要です。つまり、子供服のような「ハード」をシェアしようとすると、生産量が確実に減りますので、GDPも下がります(正確に言うと、確実に下がるわけではなく、「価格が上がるなどしない限り下がる可能性が非常に高い」というのが正しいのですがここでは単純化しておきます)。一方で、CDで売っていた音楽をダウンロードサービスに変えて「シェア」したところで、CDの価格とダウンロードの料金が同じでかつ消費量も変化しないのであれば、GDPが低下することはありません(変化はしませんが、お金の流れは変化します。例えばCDを焼いていた工場は潰れてそこに支払われていたお金が著作権者やネット配信業者などに流れるでしょう。こうした「分配」の変化も経済学的には非常に重要ですがここでは単純化のために省きます)。いや、ひょっとするとCDを置く場所が必要なくなった分だけ、もっと音楽ソフトを購入しようとする人が増え、シェアによってかえって消費量が増えてGDPが増加する可能性さえもあります。つまり、本書の主張する「シェア」は、ハードとソフトではGDPに対してそれぞれ全く逆の方向に作用するわけです。ということは、ハードの「シェア」は実は、シェアなんてしていない多数の人々の従来型の大量消費主義があってこそ初めて成り立つ寄生的なあるいはニッチ的運動という面があり(そういう人たちがいなければそもそも、生産量が減って「シェア」しようとする物の価格が高くなってしまいます)、一方でソフトの「シェア」は、むしろ大量消費自体をすべてやめてしまって完全に置き換えることが望ましいという考察が出てきます。
この点に触れずに、「ハードのシェアもソフトのシェアも両方とも素晴らしい」、「でもGDPは下がっちゃうからGDP至上主義自体を辞めようね!」と一括りにしてしまっているように見えるところが、ちょっと雑に感じました。この点をもっと突っ込んでいれば、「物(ハード)よりも、もっと眼に見えない物(ソフト)を重視する世の中にして行けば実はGDPも上げられるんだよ!」という、シェアに懐疑的な頭の硬い人々をも説得できるものすごくポジティヴな主張ができたはずなのに、と残念に思います。
また、GDP至上主義に関して言いますと、在来型のGDP至上主義を信奉する政治家やそれを支持する国民と、シェア運動及びその支持者・利用者との解離が社会に重大な影響を及ぼす可能性があります。
どういう事かといいますと、前述のとおり、ハードのシェアが進めば消費が減りGDPが低下します。GDPの低下は雇用の低下に直結します。その場合、シェア支持者以外の国民は「成長」を求めます。それに対して政治家がGDPを上げるために出来ることは、公共投資の増額です。日本では道路やダムを作りまくることになるでしょうし、アメリカなら軍事費を増やすことになるでしょう。つまり、シェア運動が進行する途中過程においては、こうした政治家や国民同士の思想的齟齬により、不必要なダムが作られて環境破壊が進んだり、軍事費が肥大化して軍拡競争や戦争につながる危険性さえあるわけです。

もう一つ気になったのは、新たな階級社会が出現する危険性です。この本の中では、シェアの動きが進むにつれ、消費者のネットスキルや対人スキルが非常に重要になるという点があまり強調されていません。例えばアウトプット勉強会という本会を例に取りますと、いくら「デジタルデバイド」を解消するために低所得者にコンピュータとネット接続環境を公費で与えたとしても、その人自身にMixiを利用したりコミュニティを検索してアウトプット勉強会に辿りつけるスキルがなければ本会に参加することはできません。また、たとえ参加したとして、対人スキルの低い人間は自然に排除されていくことになるでしょう。残念ながらこうした低スキルの人々に対して政府や第三者が出来ることは限定的です。義務教育でネットやコンピュータについて全国民に教育するとしても、効果は限定的で、必ずやそこから零れ落ちる人が出ることは明らかです。従来の経済的格差や身分的格差と違い、お金や法的措置による救済には限界があります。むしろ、経済的格差や身分的格差のように「俺じゃなくて社会が悪いんだ!」と誰かに責任転嫁できない分悲惨です。すべて「自己責任」とされるわけですから、言い訳のしようも逃げようもありません。そうなれば、そうして阻害される人々は、何らかの形で爆発する可能性が高くなります。今でさえも「社会的疎外感」から増加し続けている通り魔事件などがさらに激増する危険性があります(本書はネットが社会的絆を強くするという薔薇色の例のみを取り上げていますが、秋葉原通り魔の犯人が、ネットを利用した結果疎外感を増し犯行に至ったとされる例を忘れてはいけません)。

あと、全く別のことで、会においてちょっと出てきた話ですが、評価資本に関する説明がちょっと不十分で、読者を混乱させているように思います。この本が想定している評価資本というのは、例えばヤフーオークションの評価システムのような、「利用者同士」がお互いに評価するというものですよね。そこをもう少し明確化しておかないと、アマゾンの書評のような、利用者が生産者・販売者を評価するという全く別のシステムと混同して読まれてしまう危険性があるように思いました。

私としては、以上観てきたようなデメリットを差し引いても、人類全体としてのメリットは差し引き大きくなるものと考えています。本が電子化され書庫が必要なくなり、共同で仕事場を借りられ、楽しいコインランドリーができるだけでも私にとっては夢みたいなことです。ですが、そうしたメリットばかりに目を向けていたらある日突然戦争が起こされていたり、通り魔に刺されていたりなんてことも起きかねないわけで、そういう点においてこの本のパラダイス的世界観には大いに賛同しつつもちょっと危険を感じました。


ビジネスマンは必携必読。

評価A(我が人生最高の一冊)
ノーベル文学賞受賞は大江健三郎と違って伊達じゃなかった。

Aチームで初参加させていただきました中宮です。
皆さんご苦労様でした。

「楽園への道」については、僕にとってはこれまでの読書歴において間違いなく最高の書であったと感じております。この素晴らしい作品と出会わせてくれました月曜会の皆様に、改めて御礼申し上げます。
ただ、私が感銘を受けた点はアマゾンレビューなどでよく見られた「世間の逆風に負けず”純粋”な生き方を貫き通した二人の姿に感動した」というような類とはかなり異なるひねくれた形になっておりますし、そもそもあまり感銘を受けなかった方も多くおられると思います。個人的には、文学作品というのはもともと、処方薬と一緒で病気の人間にしか効果がないものですし、病気の種類によってもそれに適切な薬でなければ効果がないのは当然であると思っていますので、万人が同じように感銘を受ける文学作品など存在しないと考えています。
私は長年ライフワークとして、フローラのような活動家の精神状態について研究を行って来たもので、彼女の姿を美化すること無く、その狂人的・悪魔的な面まで描ききったリョサの筆力に完全にノックアウトされてしまいました。そういう点が、この手の人間を単純に「純粋」とか「絶対的正義」というキーワードで美化するのみになりがちな、我が国の純文学界全般には見られない魅力であると感じております。

内容についてですが、後書きにも不十分ながら若干言及されていますが、これが完全なフィクションではなく「歴史小説」として書かれたという点は極めて重要だと思います。なぜリョサは、村上春樹のように、完全に架空の主人公を設定しなかったのでしょうか?
僕の暫定的な解答は、「実在の著名人を描くことによって、作品中で一々彼らの”後世の評価”や”偉大な功績”について触れる必要がなかった」というのが大きいのではないかと思います。
リョサは二人を徹底的にダメ人間として描いています。家族を捨て、友人を捨て、金を周囲にたかっては感謝するどころか逆に「お前は芸術を(社会正義を)理解していない!」などと罵倒し続けます。こんな奴らが僕の家族だったりした日には目も当てられません。
一方でリョサはわざわざ、「この二人はこんなにひどかったけど、でも死後には偉人として評価されたんだよ」とは書きません。それは書かなくても、読者がすでに知っているためです。
これによりリョサは、私生活においてハチャメチャな破綻者であっても、人類の歴史に偉大な足跡を残すことがあり得るのだという二面性を描きたかったのだと思います。

次に、歴史小説として描いた理由にも関係しますが、多くの方が「読みにくい」と感じられたであろう、騎士道小説の手法を取り入れた書き方についてです。これにもいくつか理由があると思いますが、非常に穿った見方かもしれませんが僕は、リョサのいたずら心の表れが一番の理由なのではないかと感じています。
どういう事かといいますと、リョサが「ティラン・ロ・ブラン」という騎士道小説を熱心に研究しているということが後書きにも書かれていますが、この小説は実は、ドン・キホーテの中で、騎士道が失われた時代に生まれた主人公が読んで「俺もここで描かれているような素晴らしい騎士になるぞ!」と旅に出かけたきっかけとなった小説でもあります。ご存知のとおり、今日においてはドン・キホーテという作品は、ありもしない騎士道という「過去にもありはしなかった後世の勝手な幻想」に憧れて奇行を繰り返す主人公を笑い飛ばす作品として読まれています。リョサがわざわざそうした騎士道小説を模したのは、「楽園への道」を「ティラン・ロ・ブラン」のように、「過去にもありはしなかった後世の勝手な幻想」を描いた小説と想定し、それを読む我々読者の中に「俺もここで描かれているような素晴らしい活動家(芸術家)になるぞ!」と受け止めてしまう奴がいたら、「ははーん、まるでドン・キホーテみたいな読者がいるぜ」とニヤニヤするという大きな構造を作り出しているのではないかと思います。つまり、リョサは小説を書くことによってその小説の中にフィクションの世界を構築する、という一般的な小説家としての仕事だけでなく、小説を読む読者自身とその読み方でさえも、小説とセットとしての一つの世界をつくりあげたのではないか、そこが僕の(ひょっとしたら勝手な)リョサ理解です。
もう一つ重要なのは、なぜリョサは、フローラだけではなくゴーギャンまで登場させて主人公を二人にしたかという点です。これも当然いろいろ理由があるでしょうが、もしフローラの理想が実現していたら世界はどうなっていたか、ということを考えてみると非常に興味深いと思います。むろん、彼女の理想は潰え、軍隊のない世界も帝国主義植民地主義)のない世界も、男女平等でセックスレスな社会も到来しなかったわけですが、フローラから見れば、ゴーギャンの奔放すぎる性生活は当然、憎悪の対象だったでしょう。そして、これもこの作品がフィクションではなく「歴史小説」として書かれた理由でもあると思うのですが、わざわざリョサが実在の人物を登場させた伝記ならざる「歴史小説」の中に架空の事件を多数挿入している理由には当然意味があるはずで、「もしフローラの理想が実現していたら?」と言う問いにおいてもそうした架空の事件が重要な役割を果たしています。
それは、P390のフローラの回で、彼女が船で乗り合わせた船員と「アルジェリアから帰国したばかりの植民地兵スパヒ」に「どちらの職業が社会に対して貢献しているかを比較することを勧める」というこれまた悪魔みたいなお節介をした挙句、植民地獲得戦争でお国のために闘って負傷したスパヒを「あなたはフランスの軍隊が、ナポレオンの時代のように今もって徴集兵たちを獣に変えていることの生きた証だわ」と心ない侮辱をするシーンに良く現れています。これ自体は、自らを「正義」と規定し平和とか人権とかを声高に主張する現代の活動家にもよく見られる、「正義ではあるだろうが無体で心無い」言動に過ぎませんが、実はこの架空の事件が起きたとされる1844年の1年前に、後にゴーギャンが「楽園」を探しに行くことになるタヒチをフランスが領有宣言しています。タヒチの王様はこれに反発し、フランスとの植民地戦争を戦った挙句に結局数年後に併合されてしまうのですが、フローラの理想が実現して軍隊や帝国主義がフランスから消え去っていたら、いやそこまで行かなくても、フローラが馬鹿にした兵士のような存在が負傷しながらも戦争に行かなければ、当然タヒチはフランス領にはなっていなかったはずです。そうなればゴーギャンはフランス領タヒチに行くこともできなかったことでしょう。
いや、ひょっとしたらドイツ領タヒチとかイギリス領タヒチには行くことはできたかも知れませんが、少なくとも、フランス政府に泣きついて渡航費を払ってもらって一旦帰国する、ということはできなかったのではないでしょうか。つまり、(幸いにして娘を捨てて活動のみに励んだ結果孫にも合わなかった)フローラはゴーギャンのような生き方自体を憎んだであろうというだけではなく、フローラの抱いていた(幸いにして実現しなかった)理想の世界自体が、ゴーギャンの存在を否定していた、という構造をリョサは描きたかったのではないかと思うのです。そうなっていたら、「ゴーギャン」という死後に認められた偉人は、タヒチに渡ることもなくフランスで、ゴッホを死に追いやった狂人として野垂れ死んで人生を終え、我々の歴史に存在しなかったかも知れないわけです。
私が気づかなかっただけで他にも色々とこうした伏線が一杯あるはずで、ぜひとも他の方々のご意見をお聞きしたいです。

二人の抱いた理想と、歴史に残した偉大な足跡との解離も非常に興味深いところです。なぜなら、確かに二人とも偉業を達成したことを我々は知っているわけですが、それはあくまでも、彼ら自身が描き目指した理想とは全く別のものです。例えばフローラは、軍隊のない世界、帝国主義のない世界、差別のない世界を望んだわけですが、現代の世界はそうはなっていません。そうはなっていませんが、人権状況の改善について彼女が偉業を達成したという事実は変わりません。しかしそれは、孫のゴーギャンの存在さえ否定されてしまうようなフローラが目指したものとはやはり違っています。これはリョサが、「偉人なるものは当時の人々にとっては悪逆で迷惑な存在だったかも知れないが、彼ら偉人たちの目指したものとは全く無関係に、世界は善き方向に向かうということがありえるのだ」というメッセージを読者に伝えたかったのではないでしょうか。
そもそも、二人は偉大な理想を抱きつつも、彼らの言動自体は、自身が持つ理想とは全くかけ離れたものです。「言行不一致」とか「二枚舌」と言って良いレベルです。
例えばフローラは、軍隊のない世界、帝国主義のない世界、差別のない世界を望んだわけですが、自身は相手の立場を理解することなく攻撃的に罵倒することをなんとも思わない人間ですし、そもそもものすごく差別的です。
労働者たちには「無知」で「相手する価値なし」と頻繁に見下していますし、もっともそれが顕著なのはマルクスとたまたま出会う(これも当然リョサが「歴史小説」として意図的にでっち上げた架空の)P452のシーンです。
ここでフローラは、後に自分をはるかに超える偉人になるマルクスを捕まえて(彼がどういう人物であろうか知ろうともせず、彼の価値も見いだせず一方的に自分の価値だけを声高に叫び)、「覚えておいていただきたいのですが、わたしのは『労働者の団結』という本で、人間の歴史を変えるかもしれないものなのよ。どういう正当性があってあなたは去勢された鶏みたいにキーキー叫びにきてるのよ」などと喚くだけでなく、フランス語がよく分からないマルクスを「フランス語をもっと磨くことね」「汚く見えるからその針ねずみのような髭を剃ったほうがいいわよ」と差別的言葉を平気で投げかけています。彼女にとってはフランス語と言う言語はどうも、世界言語として又教養人の言語として、しゃべることができて当然の言葉であるようです。実際当時は、現代の英語、古のラテン語のように、フランス語というものはそういう存在だったわけでして、教養人や学術論文などはフランス語を使うのが当たり前でした。
しかし少なくともフローラは、P141において「卑劣な考えの気取った砲兵たち」に対して「わたしの祖国はフランスである以前に人間性という国です」と言ってのけているわけで、その彼女が、実際にはこういう、当時普遍的だったフランス至上主義的差別感情を隠そうともしなかったというのは、リョサの意地悪さが透けて見えます。
これに関して実は史実においてフローラはイギリスで女中をしていたことがあるのですが、小説ではP90で「陰鬱な思い出だったね、フロリータ。彼女は女中をしていたその3年をとても恥じていたので、自分の伝記から消していたが、かなり後になって裁判にかけられたとき、アンドレ・シャザルの弁護士が公にしてしまった」とわずかに触れられているだけですが、なぜ彼女が「恥じて」いたのかみなさんはわかりましたでしょうか。「女中」をしていたからだと受け取った方もおられると思いますが、どうも僕には府に落ちません。ほんとうの理由は、英語が分からなかった、分かろうとしなかったからなのでは無いでしょうか。だって(フランス語が通じる)スイスで女中をしていたことは恥じていないわけですし。
これもきっと、リョサによる「フローラはその理想とは裏腹にフランス至上主義の差別感情を持っていた」という伏線の一つなのではないでしょうか。
ちなみに、タヒチを「楽園」と夢想したゴーギャン自身も、フランス語至上主義で、現地語を学ぼうとしなかったのは皮肉なことです。

また、会ではあまりみなさんのご賛同が得られなかったようですが、僕が持っていた疑問があります。
ちょっと入り組んでいて難しくなりますが、もともとこれは伝記ではなく歴史小説である以上フィクションなわけですが、フィクションで描かれた世界の中における「現実」「事実」は存在するはずです。そこで問題になるのが、この小説はフローラ(ゴーギャン)から見た「(フィクションの中における)世界」を描いたものなわけですが、では、そこに(フローラやゴーギャンからの視点として)書かれている文章は「事実」を書いたものなのでしょうか。僕はかなりの(フローラやゴーギャンからの視点としての)「主観」や「妄想」が含まれているように思えました。
例えばフローラについてみてみますと、彼女はもてもてなわけです。目の前で自慰し始めるヤツだって一人や二人ではありません。船旅中は船員船客皆が彼女にヨダレを垂らしているし、南米で旅行中はキャラバンの全員がやはり彼女に欲情していることになっています(にもかかわらず実際に襲われたことはただの一度もありません)。金をタカリに行ったブルジョワを罵倒したにもかかわらず、かえって言い寄られたりすることも一度や二度ではありません。
遺産をタカリに行った叔父についてもそうです。フローラはP266において「この頃、フローラとドン・ピオは奇跡的にも仲直りしていた。叔父に対して法的な措置に訴えることができないことを姪がやむなく認めたときから、叔父は以前口論した日にフローラが脅したように、彼女にスキャンダルを起こされるのではないかと恐れていたので、妻や子供、姪たち、中でもとりわけアルトハウス大佐を動員して、トリスタン一族の家を出ようとするフローラをなだめて留まるように説得した」などと言っていますが、これも妄想にしか見えません。実際叔父とその家族は彼女を暖かく迎えてくれて身の回りを世話する「奴隷」まで与えてくれ、渡航費用だけでなくお小遣いまでくれているわけです。
そればかりか、フローラ自身が捨てた娘を受け入れ、娘の産んだ孫のゴーギャンまで立派に育て上げ、証券会社にコネで就職させてあげたりしています。こうした好意を「スキャンダルを起こされるのではないかと恐れていたので」などと曲解し相手を悪魔化するのは、フローラとゴーギャンの二人に共通した傾向だと思われます。
実際、ゴーギャンの回においては明らかな嘘を(ゴーギャンの主観的)「事実」として記述している箇所があります。それはP464の「そのような村では、神秘的な刺青が施されるのを見ることができるかもしれなかったし、若返りのために人肉を食う祝宴に招いてもらえるかもしれなかった。それらの習慣は決してなくなってはおらず、森の奥深く密かに、マルタン猊下やヴェルニエ牧師、クラヴリ憲兵の権限が及ばないところで行なわれていることをおまえは知っていた」という部分です。
「おまえは知っていた」などと呼びかける形で書いていますが、人肉を食らう習慣がすでに存在しないことは明らかです。これはゴーギャンタヒチを「楽園」だと勝手に思い込んだ挙句の妄想に過ぎません。こういう、自らに呼びかけた形の書き方でもあるにもかかわらず明らかに虚偽の部分が存在する以上、フローラの回を含めた他の部分でも、同様な「主観的事実」(実はただの思いこみや虚偽)があって当然のように思います。

と、長々と書いてきましたが、小説としての読み方以外にも、まるで謎解きのようなこうした伏線や引っ掛けがまだまだ一杯あるはずで、読めば読むほど新しい発見が出来る最高の作品だと感じています。

最後になりますが、フローラとゴーギャンは「自分は不幸だ!」って嘆いてばかりですが、実はものすごく幸運ですよね。いきなり遺産が転がり込んだりするし。そうした幸運がなければ、二人とも、後世に知られること無く狂人として野垂れ死にしていたはずですし。

高い。けどそれだけの価値はある。この名著を普及させるためにも早く安い文庫版を出してくれ。