評価B

読書会ごとに必ず長文の感想投稿を宣言しておりながら、「見えない都市」の回から1ヶ月以上と、大変投稿が遅れて申し訳ありませんでした。

Cチームに参加させていただきました中宮です。
ファシリの日向夏さんをはじめ、もしさん、toshi5_5さん、理夢さん、machu.さん、ミチヒロさん、皆様お疲れさまでした。
というのは、私自身過去の月曜会、アウトプット勉強会の課題本の中でダントツに疲れた本であったからなのですが……。それだけパワーを使っただけの価値はある本ではあったのですけど。
この作品は、いい意味でも悪い意味でも、典型的ないわゆる「ポストモダン小説」だと感じました。その時点で、読むと疲れるというのも当然ではあるのでしょうが、ポストモダン小説家に分類されることが多いポール・オースターですが、その訳者である柴田元幸氏お勧めというのも、納得出来るものでした。
また、フビライマルコ・ポーロが出てくるということから、この小説を「歴史小説」だと間違った思い込みで読んでしまう読者が大半であるという点も、おそらく、読者を疲労させる原因の一つだと思います。そこが、前回の月曜会課題本であったリョサ「楽園への道」がゴーギャンとフローラという、歴史上の実在の人物を登場させた「歴史小説」(あくまでフィクションの小説であって、ノンフィクションの伝記ではない点には注意が必要です)であった点と異なる所でしょう。読み始めればすぐに分かることですが、P25「 高原の地平線に摩天楼の尖塔やレーダー用のアンテナが姿をのぞかせ」などの現代技術が描写されている点からしても、少なくとも、彼らが生きた数百年前の13世紀のお話ではないことがわかります。つまりこれはむしろ、ファンタジーとかSFと考えて読んだ方が理解しやすいでしょう。実際カルヴィーノはSF作家でもありますし。最初からそれが分かっていれば疲労度も少ないのでしょうが…。
また、題名からして「都市論」の物語として読んでしまう読者も多いと思いますし、それを踏まえて「出て来る都市のうちどれが好きだったか」「どの都市からどういう教訓が得られたか」という、個別の都市それぞれに注目した読み方をなさる方が多数だったのではないかと思います。無論そういう読み方をしてもいいのでしょうけど、恐らくそれはそれで、なかなか著者の真意や意図を読み取ることができず疲労させられ当惑させられることにもなると思います。
さて、この疲れる「ポストモダン小説」ですが、ポストモダンの特徴である、「価値相対主義」(私は私、あなたはあなた。どっちも正しいしどちらが間違いとも言えない)、軽薄さ・不真面目さ・軽さが徹頭徹尾一貫して流れている点が、疲労の最たる原因だと思います。夏目漱石だのそういう典型的な従来型の小説は乱暴に言えば、物語に意味があって意図があって著者の言いたいことがあり、それを直接的に「書くこと」で表現する、という形になりますが、ポストモダン小説としての本書は、それを嫌います。軽薄であり、意味に価値を認めず、無意味とさえ思える表現や技法を駆使し、「書くこと」よりもむしろ「書かれていないこと」を重視します。ですから恐らく皆さんやってしまったことだろうと思いますが、一度この小説を読んで書いてあることや意味がぜんぜんわからず、もう一度、もっと「読んで、書いてあることを」読み取ろう・理解しようとすると、ハマってしまいます。著者の罠にハマってしまいます。いくら「読んで」も、恐らく新たに得られる知見はごく僅かです。むしろ、「書いていないこと」について思いを巡らすことこそ、本書を理解する上での重要な態度なのではないかと思いました。
実はそういうことは、カルヴィーノ自身も本書の中でなんども示唆しています。例えば、P108の

「 マルコ・ポーロはとある橋の姿を、その石の一つ一つに至るまで、描写している。
「だが、その橋を支えている石はどれか?」とフビライ汗がたずねる。
「橋は、あれこれの石一つによって支えられているのではございません」と、マルコは答えて言う。「その石の形づくるアーチによって支えられているのでございます。」
 フビライ汗は口を閉ざして、考えにふけっている。やがて、言葉をついで言う。「なぜお前は石について語るのか?朕にとって重要なものは、ただアーチだけである。」
 ポーロは答えて言う。「石なくして、アーチはございませぬ。」」

という部分です。
「書いていないこと」が存在する理由は、わざと書かないのか、それとも元々書こうにも書けない・書く方法がない、のいずれなのかはケースバイケースでしょうが、この引用部分においても、カルヴィーノは、マルコがアーチについて言えるけどわざと言わないのか、それともそもそもマルコはアーチについて言える能力や術がないのか、どちらであるのかは明記していません。しかしそれはともかくとして、「全体の構造」であるところのアーチのほうが、構造を支える一要素に過ぎない個々の石についてより重要で本質的である点は疑いようはありません。しかしマルコはアーチについては説明しない、石についてしか説明しない、というふうになっています。これではフビライがイラつくのも無理はありません。例えば、英語を学びたい学生にとって、アルファベットの書き方しか教えてくれない教師はほとんど役に立ちません。学生が知りたいのはあくまでも、アルファベットを組み立てて作られた単語が、どういう文法や法則によって組み合わされ意思疎通に用いることができるのかという「全体の構造」であって、アルファベットだけをいくら覚えても意味はないからです。同じようなことは、身の回りにもいくらでもあるでしょう。例えば、日本の経済の仕組みや構造を知りたい経済学者にとって、「日本では貨幣の種類の一つに1万円札というのがあってこれはこういうデザインで大きさはこうで…」などと、貨幣のことについてしか説明してくれない報告者はなんの役にも立たないでしょう。だからといて、貨幣のことやアルファベットのことしか言わない人間に対して、「そんな個々別々の話ではなく、全体的な英語や経済の構造の話をしてくれ」と怒っても、無駄なことでしょう。同じことがこの小説そのものについても恐らく言えて、この小説に書かれていない重要な・本質的なことを、書かれていることから「書かれていないこと」を類推し考えなければならない、それこそが、この小説を読む時に疲労させられる要因の一つなのだと思います。つまり本質的にこの本は、はやりの「速読」には向きません。書いていることだけを記憶しても、ほとんど意味がありません。
では、この小説に書かれていないこととはなんでしょうか。これには読者によっていろいろ答えがあるでしょうし、恐らくこれだ!という答え自体を著者自身が想定していないのでしょうが、私は「人」こそが、ここに書かれていない重要なものだと感じました。
例えば、それぞれの都市の中に登場する住民は、どれも顔を持たない「その他大勢」の、取替の効く「記号」に過ぎません。そこでの主役はあくまでも「都市」です。住民はただの記号であり、都市を説明する上での付属物でしかありません。しかし、本来都市とは、人が主役であるはずです。人が住むために作られたものが都市である以上、それが当然です。しかし、いわゆる「都市論」は、建物の姿形や機能、建物の並べ方などに注目し説明するばかりで、そこに住まうはずの住民の顔が見えてこないという側面が多くありました(20世紀後半当たりからはすこしずつ変わってきて、「人間」の顔が見えるようにという努力が見られる「都市論」も出てきているようですが)。都市論に限らず、文明論や国家論なども同様です。そこでは「人間」は脇役でしかありません。
そればかりか、フビライやマルコという語り手自体でさえ、実は取替の効く記号に過ぎません。彼らが全くフィクションの実在しない「王様」と「旅行者・報告者」であっても、この小説は一向に不都合が生じないはずです(正確に言うと後で書くように、少々不都合が生じる)。実際、普通の小説であればフビライとマルコについて、もっと彼らの人物についての描写が色々あってしかるべきです(これは次回4月の「ポストモダン小説家」ポール・オースターの小説にもある程度言えることです)。例えば前回の「楽園への道」においては、主人公のゴーギャンは、後世においては偉人として評価される、当時の家族や隣人にとってはろくでなしで怠け者のたかり屋で、妻や子供にろくに生活費も渡さず勝手にタヒチにひとりだけ移り住むは、金がないのに食い物をツケで売ってくれた店主を「俺様の芸術作品を理解出来ない馬鹿者め!」とか恩知らずに罵るは…と言ったような、主人公の人物やその生き方についての説明や描写が物語のメインを占めるわけです。ところが「見えない都市」では、フビライやマルコが一体どういう人物であるのか、ほとんど説明されません。それは恐らく、著者のカルヴィーノ自身が、二人を記号化するために、わざと書かなかったのだと思います。では、カルヴィーノはなぜ、フビライとマルコ、そして都市の住民たる「人間」たちをここまで記号化して、彼らの人物や生き様について徹底的なまでに書かなかったのか。それは、月曜会特別企画で取り上げられた、椹木野衣「反アート入門」の中に、類似のお話がありますので、引用してみます。

P260「 こうして水墨画の世界はこの時点で、20世紀の実験音楽の世界でのジョン・ケージ作曲「4分33秒」のような領域に達してしまったのです。ケージのこの曲は、ストップウォッチで計られる4分33秒のあいだ、ピアニストがピアノの蓋を閉め、なにも弾かずにじっと沈黙を守ったことで知られた曲です。初演の際、観客はなにも弾かれないこのピアノ曲にいらだち、ザワザワと物音を立て始めたといいます。けれどもケージにしてみれば、音楽の「蓋を閉じる」ことで、逆に周囲の物音へと「耳が開かれる」のであり、この曲を通じて、まさしくそうした新しい音(「音楽ではもはやなく」への姿勢を提示したのです)

4分33秒」という「曲」は、「演奏しない」ことにより、人々の「耳が開かれ」ました。同じことは、「見えない都市」についても言えて、都市についてばかり描きそこに住む人どころかフビライやマルコについてさえ書かないことにより、従来の(特にカルヴィーノがこれを書いた時代である70年代における)都市論や文明論において人間の顔が見えないその歪さ、グロテスクさを表現したのではないでしょうか。
また、P74の以下の部分も、同じように「書かないこと」の意味が読み取れる部分です。

「「そちの申す都など存在はせぬ。恐らくはただの一度も存在したことなどはなかったのだ。もちろん、もはや存在することもない。なぜそのような気慰めの作り話を面白がっておるのだ?わしにはよくわかっておる、わが帝国は沼のなかの骸のように腐りはてている」」「「なぜこうしたことを語って聞かせぬ?なぜ韃靼人の皇帝をそちは欺くのか、異人よ?」

マルコは、曲がりなりにも「今生きている都市」「未来のある都市」ばかりをフビライに報告しました。それは「嘘」ではないかも知れませんが、一面の事実に過ぎません。無論それ以外にもう一面の事実として、滅びに瀕している都市やすでに滅びてしまった廃墟の都市などもあるはずなのです。しかしマルコはそれを報告しません。それにより、フビライは逆に、「わが帝国は沼のなかの骸のように腐りはてている」という、マルコが報告しない(もう一面の)事実について気付かされました。これも「書かないこと」「言わないこと」による新たな知見が得られる一つの例だと思います。そうした点についてはフビライ自身が認識しているらしく、マルコを重用する理由について、こう説明されています。

P51「 しかしこの不明瞭な報告者のもたらす事実、あるいはニュースの一つ一つをフビライにとって貴重なものにしていたのは、その周囲に残された空間、言葉によって満たされていない空虚なのだった。マルコ・ポーロが訪れたその都城の描写にはいずれもこうした長所があった」

実はこうした「書かないこと」によって何かを表現するというポストモダン小説は日本にもかつてブームになったことがあって、例えばバブルの80年代初頭に話題となった、田中康夫の「なんとなくクリスタル」もその一つです。この中で田中は、バブルに狂った主人公の姿を、その人物や人柄については極力書かず、所持品であるブランド品や、行きつけのおしゃれなバーなどについてのみ異常というよりも病的なぐらいに詳述し、そればかりか、本文だけではそうしたことを書ききれずに、欄外に本文の分量顔負けの脚注を山のように追記するという手法で、人間性というものを軽視しブランド品やおしゃれな飲み食いなどの消費文化ばかりが肥大化したバブル時代をグロテスクに表現してみせました。なんとなくクリスタルが見えない都市と肩を並べる名作だとは言いませんが、小説の構造としては非常に似たものがあるように思います。
さて、「なんとなくクリスタル」が、日本文化や「バブル」の時代を知らないイタリア人や外国人にとって読み辛いのと同様、この「見えない都市」も、イタリア人の常識を持ち合わせていない我々日本人にとっては、若干読み辛い点があるように思えます。例えば、先程私は、フビライやマルコは交換の効く記号だと書きましたが、これはあくまでもイタリア人読者を前提にした場合の話です。どういう事かといいますと、イタリア人にとっての「フビライ」「マルコ」と日本人にとっての「フビライ」「マルコ」のイメージは全く異なるからです。
我々日本人にとってフビライはせいぜい、元の指導者であり日本に元寇という侵略戦争を仕掛けてきたが神風が吹いて撃退された、という程度のイメージしか無いでしょう。しかし、イタリア人を始めとする東及び南ヨーロッパ人にとっては、フビライによってイメージされるモンゴル帝国とは、ロシアを占領しポーランドにまで攻めこみ、そのうち現ドイツやイタリアなどのヨーロッパの中心部までことごとく征服されてしまうのではないかという恐怖の対象でありましたし、その過去の記憶は非常に強烈で、現在でも子供に「悪いことをするとモンゴル人が来るよ!」と脅してしつけをすることもあるほどです。そしてマルコ・ポーロについては、イタリア人にとっては一種の国家的英雄というイメージがあります。その故郷の英雄マルコが、「あの恐ろしい侵略者で征服者であるモンゴル人の皇帝と、対等に友達のごとく付き合っていた」、イタリア人にとってこの小説は、そういう感覚で読まれるはずです。イタリア人ならざる我々は、この点を踏まえて読まないと、この小説がイタリア人に与える痛快さやユーモアがよく理解出来ないように思えます。そして恐らく、実在の「フビライ」や「マルコ・ポーロ」という記号を、単純に架空の「偉大な征服者」と「冒険者・報告者」とだけ置き換えてしまうと、そうした自明なイメージが失われるため、その失われる点を本作に更に書き加える必要があります。当然描写は冗長的になりますし、分量も増えることでしょう。それが恐らく、カルヴィーノが単に「偉大な征服者」と「冒険者・報告者」という記号ではなく、「フビライ」や「マルコ・ポーロ」という実名の記号を(主にイタリア人向けに)使用した理由の一つであるように思われます。
ポストモダン小説特有の軽薄さについて言いますと、一般的にポストモダンの信奉者というのは悪く言うと軽薄でいい加減なやつ、よく言うと遊び心とユーモアに溢れるいたずらっこが多いですので、そうした傾向がこの小説にも見られます。例えば、訳者なども触れている、この小説のてんでバラバラにさえ見る章分けです。なんだか数列がどうのとかいう解説がなされていますが、恐らくそこにはなんの意味もありません。単なる著者の遊び心のようなものに過ぎないと思います。そこで「作者の意図」や「意味」を読み取ろうとすることこそ、カルヴィーノの罠にはまったことになるのではないでしょうか。そもそもポストモダンという概念自体が「意味」を軽視する傾向のある考え方なのですし。実際カルヴィーノも、ファシリの日向夏さんが紹介してくださった他の著書などを見てもわかるように、かなり冗談好きで、「軽さ」を重視する人物だったようです。
次に、この小説においては哲学などにおいてもよく議論となる「認識論」が主要なテーマの一つになっているように思います。例えば、そもそも「対話」とか「会話」「コミュニケーション」というものは成り立つのか、といったようなものです。最近では「涼宮ハルヒの憂鬱」等のラノベがベストセラーになったことにより、こうした小難しい哲学的認識論の存在が一般にもかなり知られるようになってきたようですが、例えば

P52「 時がたつにつれて、マルコの物語のなかでだんだんと言葉が物や身ぶりに替るようになっていった」「 しかし、もしかしたら彼らのあいだの伝達は以前ほどうまくはいっていないとも言えそうだった」

などもそうです。たしかに二人は身振り手振りで意思疎通をしようとしています。でも、本当にお互いに意思疎通が出来ているのでしょうか。少なくとも、我々でさえ日常的に、言葉や文字によるコミュニケーションにおいて「誤解」や「間違い」は頻繁に起きています。そしてこの引用部分では、マルコが言葉をうまく使いこなせるようになってきたことで逆に、身振り手振りだけの頃より意思疎通が難しくなってきたとさえ言っています。以下の部分も同じことが言えます。

P37「 フビライ汗がからんで来るときは、何やら自分の思考の糸をうまくたぐってゆこうとするときなのだと、ヴェネツィア人の青年は心得ていた。そして彼の返答や反論は、皇帝の脳裡でかってに展開されている議論のなかにはやくもそれぞれの場所を見出しているのだということも。つまり彼らのあいだでは問や答が声高に表明されようと、あるいは二人ながら黙ったままそれぞれの問と答を反駁し続けようと、変りなかったのである」

彼ら二人にとっては、言葉によって伝えられる意味そのものはそれほど重要ではありません。それよりも、伝えようとする行為や意志自体のほうが重要なのです。何しろ、マルコの報告自体が実は事実ではなく架空の、大嘘の報告かも知れませんし、例え事実であったとして、言葉でマルコの意図することがフビライに正確に誤解なく伝わるとは限らないからです。前述のアーチと石の話などはそもそも、マルコは正確不正確以前に、アーチを言葉でフビライに説明すること自体ができません。
認識論は、言語についてだけの問題ではありません。この世界そのものでさえ、人間は「正しく認識」することなど可能なのでしょうか。例えば映画「マトリックス」が有名ですが、SFにはよく、実は人間は(あるいは人間の脳だけが)カプセルか何かに入れられていて、「世界」はコンピュータが脳に電気信号を与えることによって見せているフィクションに過ぎないのだ、という物語はいっぱいあります。果たして我々は、この説を論破できるでしょうか。この世界はコンピュータの幻想なんかではないし自分はカプセルに寝ているだけではない、実際に世界は存在するし私は今パソコンに向かっているのだ、と言い切れるでしょうか。そうした極端な話にしなくても、フビライは常に認識論の問題に悩まされています。フビライは、自身のモンゴル帝国が広大な領域を支配したという情報は持っています。しかし、その情報が正しいなどと、誰が言い切れるでしょうか。フビライは単に、部下や伝令からそういう嘘の情報を伝えられて大帝国を支配していると信じさせられているだけかも知れません。少なくとも彼自身は、実際に自分が支配しているとされている領土の隅々都市の全てを実際に訪れて見ているわけではありません。支配領域を描いたとされる地図を眺めたり、マルコの報告を聞いたり、官僚や地方総督などからの報告を見聞きするだけです。そうした認識論に悩むフビライの姿の部分を引用してみます。

P33「もしやこの帝国は――と、フビライ汗は思った――精神の黄道に宿る幻の星座にほかならぬのではないのか。
「いつの日かこの表象をことごとく知るときには」と、フビライ汗はマルコに問うた、「朕はわが帝国をついに所有し得ることになるのだろうか?」
 すると、若者の答えて言うに、「陛下、そのように信じ給うてはなりませぬ。そのときには陛下御自身が表象中の表象とならせ給う日でございます。」」

個々の都市の全てを訪れたり知ったりすることは無理かもしれないが、全ての都市に共通する理論を見つけ出し理解できるのなら、自分は本当に帝国を支配していると言えるのだろうか?フビライはそう問いかけます。しかし、例え本当にそんな理論が存在するとしても、それを発見し理解したからと言って、帝国を支配していると言えるようになるかどうかは分からない、いくら考えても少なくとも今の我々には答えはわからないのです。
また、フビライは、世界を征服したり大帝国を築いたりする「意味」についても悩みます。これもポストモダニズムの特徴で、人生の「意味」、言葉の「意味」、文明の「意味」と言った物を疑う、酷いものになると意味など無いと言い切ります。例えば以下の部分です。

P156「彼は思った。「もし都市の一つ一つが将棋の手合いのようであるのなら、その規則を完全に知りつくすことができた日こそ、ついにわが帝国をわが手にすることとなるのだ。たとえその都市を残らず知るに至ることがついになくとも。」」

P170「 ……偉大なる汗は勝負に没頭しようと努力していた。しかし今ではその勝負の理由が彼の思念を逃れてゆくのだった。ゲームの終りはつねに勝利か敗北なのだ。だが何の?」

広大な領土を征服した。皇帝にもなった。それは「偉大」なことかもしれない。でも、だからなんなのか?それに「意味」はあるのか?これは大きくは、我々の人生、ある日生まれてそしていつか死ぬ、その間に努力や失敗を繰り返し出世や成功、没落や失敗を繰り返す、そうした人生そのものの「意味」、人生に「意味」はあるのか、そういうところまで話を拡張できる問だと思われます。では、もし人生に意味はないとして、それなら我々はどう生きたらいいのか。意味が無いからと諦めて、自堕落に何も成さずに死を待つのか。そもそも人生に限らず、すべての物に「意味」が必要なのか。それに対するカルヴィーノなりの答えが書かれているのが、この小説の最後である以下の部分でしょう。

P214「 彼が言う――「ともかく無駄なことよな、最終の到達点が地獄の都市以外にあり得ぬとするならばな、そしてそのどん底にむかって、ますます環をせばめてゆく渦巻のなかに、流れはわれわれを吸いこんでゆくのだ。」
 それに答えてポーロ――「生ある者の地獄とは未来における何ごとかではございません。もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易いものでございます。すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします。すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄でないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることができるようになることでございます。」」

人は本能的に「意味」を必要とする因果な生き物かもしれません。「人生に意味など無い」と言われそれでもなお今と同じように生きられるほど、おそらく多くの人間はそこまで強くはないと思います。つまり多くの人間は、現実からある程度目をそらす「第一のもの」の生き方をしているはずです。しかしカルヴィーノは、そうではない「第二」の生き方を恐らく勧めたいのでしょう。それは非常に辛く面倒な生き方です。
そういう点からこの作品に出てくる都市を見返してみますと、非常に重要な都市が二つあります。
一つ目は、オッタヴィアです。

P96「 奈落の底の上に宙吊りになっているとは申しながら、オッタヴィアの住民の生活は、他の都市に較べてさほど不安なものでもございません。彼らは、時が来ればこの網も保たないことを承知しているのでございます」

宙吊りの都市であるオッタヴィアは、いつか綱が切れて落ちてなくなります。住民もそのことは知っています。しかし、だからといって住民は将来を悲観もしていませんし、落ちないような、あるいは落ちても大丈夫なような対策もしようとしていません。これは、地獄を見ないことにする「第一のもの」の生き方です。そして我々多くの人類の生き方でもあります(温暖化などの環境問題ですといろいろ賛否があるので例としては不適切でしょうが、例えば太陽は50億年もすればなくなり、地球も消滅することはみんな知っています。でもだからといって悲観もしないし対策もとりません。後世の人々が何とかしてくれるだろうぐらいにしか考えていませんし、そもそもそんなことさえ考えたことがない人が大多数でしょう)。
もう一つ重要なのは、ペリンツイアの都市です。この作品に出てくる多くの都市が「都市がどういうふうに創られたか」についてなんの説明もありません。それは恐らく、都市という物はそもそも自然発生的に、その時々の必要に迫られ作られ、発展してきたからです。ところが、このペリンツイアだけは違います。

P185「 ペリンツィア建設のための基準を口授すべく呼び出されました占星術師たちが、星々の位置にしたがってその場所と日を定め」

創られた「理由」は定かではありませんが、少なくとも、どうやって作られたかはここではっきりしています。ところがその後、ペリンツイアは困ったことになります。

P186「 ペリンツィアの占星術師たちは今や困難な岐路に立たされておるのでございます。すなわち彼らの計算がすべて間違っており、彼らの数字は天空の動きを語るには何の役にも立たないことを認めるべきか、あるいは神々の秩序とはまさにこの怪物の都市に映しだされているものに他ならぬことを打ち明けるべきかと」

正確に理論に基づいて作った都市なのに、その都市を様々な災厄が襲います。なぜなのか?と住民たちは悩みます。説明の方法は二つあるわけです。理論自体が間違いであったか、あるいは、そういう災厄自体が実は理論が予想していたものであり、当然起こるべきものだったのだ、そのいずれかなわけです。これは我々の科学や宗教、思想などの発展史においても、常に直面してきた問題です。そうした葛藤を乗り越え、例えばニュートン力学相対性理論に発展しました。そして同様の葛藤は、現在も我々人類があらゆる場面において直面しています。いずれ「完璧な理論」や「完璧な真実」を我々人類は発見し、その手の葛藤から脱却することができるようになるのか、その発見した「完璧な理論」があればペリンツィアの人々も災厄を避け平安な生活を送れるのか、少なくとも今の我々に答えが出せる問題ではないのでしょう。
最後に蛇足ですが、ポストモダンが大好きな問題として、「オリエンタリズム」という概念があります。私はこの考えがポストモダンとともに大嫌いで胡散臭く感じているのですが、要するに、異文化に対する思い込みのことです。例えば我々が、「おれ、“外資系”に就職したんだ」と友達から聞いたとします。おそらく殆どの皆さんは、日本企業の安月給に我慢出来ない優秀な友人がアメリカかヨーロッパのどこかの大企業に就職したのだと思うことでしょう。ところが、韓国の零細企業だって「外資系」なわけです。つまり本当は、日本の企業にさえ相手にされない友人が韓国の零細企業に安月給で雇われただけかも知れないのです。このように、実は異文化を表す言葉(「外資」)には、その言葉を作った・使っている文化の人々(日本人)による思い込みが元々含まれている、というのが「オリエンタリズム」の考え方です。この小説に置いてもそうしたオリエンタリズムの見方を取り入れた部分があります。例えば、イレーネの都市についての以下の部分です。

P160「 ここまで話を聞くと、フビライ汗はその内部から見たイレーネの様子をマルコ・ポーロが語るものと待ち受けている。しかしマルコにはそれができないのでございます。高原の人々がイレーネと呼ぶ都市がどのようなものであるのか、マルコはついに知ることができずにおるのでございます。それに、そのことはさまで大事なことでもありません。その中にいて見るときは、それはまた他の都市となることでございましょう。イレーネとは遠くから見る都市の名前でございます。近づけばまた変るのでございます」

マルコは、イレーネについてその周辺の人々が説明することと、イレーネそのものは別だ、「他の都市」でさえあるとまで言っています。そして後書きでも書いているように、このイレーネの都市は、全都市の中で唯一「マルコは」と、他の誰かではなくマルコ・ポーロ自身の報告であることが明記してある特殊な都市でもあります。

P226「 ここで注意を引くのは、マルコ・ポーロの報告であると受け取っていっこうに差し支えないはずの<中身>のテクストのなかでマルコの名前がただ一篇の<報告>(「都市と名前 5」)のなかに現れるだけで、それを除けば、語り手は一貫して「私」と言うばかりだという点である。反対に、<枠>のテクストのなかでは<中身>からの直接の引用はまったく見られない。つまり、ただ一箇所の破綻を除けば、<枠>と<中身>はそれぞれほぼ完全に独立したテクストを構成し、また役割もほぼ完全に分離されているというわけである」

他の文化(この場合は都市)の説明には、どう客観的に説明しようと努力しても、その人の背景となる文化の主観的影響を受けざるを得ないというオリエンタリズムの考え方を表している部分は、他にもあります。

P112「 ポーロは答えて――「どの都市のお話を申し上げるときにも、私は何かしらヴェネツィアのことを申し上げておるのでございます。」
「朕が他の都市について訊ねておるときには、朕が聞きたいのはその都市の話である。」
「他の都市の長所を知るためには、言外には明らかにされぬ最初の都市から出発しなければなりません。私にとっては、それはヴェネツィアでございます。」」

この部分は多くの方は、「他の都市を説明することによってマルコは自身の故郷であるヴェネツィアをも説明しているのだ」と解釈なさるのかも知れません。無論それは間違いではないのですが、むしろ、「他の都市を客観的に説明しようといくら努力しようが、故郷であるヴェネツィアの文化的影響を受けてしまって偏った説明しか出来なくなるのだ」と言ったほうがいいように思えます。つまり人間というものは本質的に「絶対的客観」という姿勢を手に入れることが不可能な生き物なのだ、ということを言いたいのではないかと思うのです。
以上長々と書いてきましたが、ポストモダン小説の中では非常に良質で、人生や人類の諸問題について深く考えさせられる良作だと思いました。
これまでポストモダン小説というだけで偏見があって、あまり手を出さないようにしてきましたが、カルヴィーノについては他の作品もこれから色々手を出してみたくなってきました。

今回読んだのはこちら。安さで選ぶのならこっち。

こちらの「世界全集」版は、解説などの質の高さに定評がある。高いけど。