ショーペンハウエル「知性について 他二篇」(岩波文庫)

評価A

 この書は学生の頃から何度も読み返して来ましたが、そのたびに新たな気づきを与えてくれる素晴らしい古典だと思います。
 特に今回アウトプット勉強会を機に読み返してみると、近年のインターネットの普及した社会にも様々な有益な示唆を与える部分が含まれることに驚きを感じました。
 で、まず訂正ですが、当日「「セーラー服と機関銃」は角川作品だけど赤川次郎の作ではなかったと思う」と発言しましたが、れっきとした赤川作品でした。申し訳ございません。

 多くの参加者の方々が指摘なさっていたように、ショーペンハウエルの怒りは相当なものです。当時彼の大学の同僚であったヘーゲルが、彼以上の名声を掻っ攫っていたことがよほど腹に据えかねていたらしく、実名を上げてヘーゲルをこき下ろしていることからもわかるように、この書自体が「知の探求」だけではなく私的な「怒り」をもパワーの源泉としているところは、微笑を誘われざるを得ません。ましてや当時の状況は、かつて読書といえば「古典」を読み自らの「形式(考え方)」を鍛えるのが当たり前だったという風潮が崩壊し、古典の劣化コピーに過ぎない「新刊」が溢れ、その著者や読者がでかい顔をしていることがまかり通るという、現代においては当たり前となっている風景がまだ出始めだったということもあってか、彼のお怒りは本書のあちかこちらに抑えがたく現れています。もし彼が、古典を読むことこそが真の「読書」であるとされていた時代に、そうあと半世紀ほど早く生まれていれば、この本は書かれていなかったかもしれません。
 その上で誤解無いように強調すれば、ショーペンハウエルがこの書を書いた目的は、私的公的なうっぷんを晴らすためではなく、自らを知的に改善するための読書の方法を世間に伝えるためだと思われます。つまり、娯楽小説などのような「楽しみ」のための本を読むことに関しては、おそらく最初から眼中にないのでしょう。彼が哲学書思想書なども含めて「文学」と呼んでいるため混乱が生じるかもしれませんが、この点は重要だと思われます。

P8「 読書は思索の代用品にすぎない」

と言う部分が、そのあたりの区別をする上での重要なポイントになるのではないでしょうか。
 ですから彼が、例えば

P134「 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」

などと言う場合、別に娯楽小説だのエッセイだのまで古典以外は悪書が溢れているから気をつけろ、と言っているわけではなく、「思索をするための読書をしたいなら思想書や文学、哲学書などは新刊だと悪書が多いので古典にしなさい」と言っているのだと感じました。
 それを踏まえた上で、ショーペンハウエルは結構、現代の平等主義の価値観からするとかなり辛辣なことを言っています。

P6「ところで読書と学習の二つならば実際だれでも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である」

P6「 自ら思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほど大きなひらきがある。そのため思索向きの頭脳と読書向きの頭脳との間にある最初からのひらきは、ますます大きくなるばかりである」

 この二点からもわかるように、彼は、すべての人間が同じように「思索」向きの頭脳を持っているとは考えていません。先天的なのか後天的なのかはかわりませんが、明らかに頭脳には「向き」があるとしています。つまり、ここでも実はショーペンハウエルは、この本の対象者を限定しています。よくこの書は「読書のし過ぎは害になる」と単純化されて理解されることが多いですが、実は「思索向きの頭脳の持ち主にとって、いくら良書とはいえ思索もせずに多読するのは害になるし、ましてや最近の新刊は古典に比べて悪書が多いから読むだけ時間の無駄である」とでも言わないと、この書の本質を誤ることになると思います。つまりぶっちゃけ、思索向きでない頭脳の持ち主はそもそも彼の眼中にないんですね。

 さて、以上を踏まえた上で、彼は、思索向きの頭脳の持ち主に対して次のように警告します。

P127「読書は、他人にものを考えてもらうことである」

P7「多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る」

P9「読書はただ自分の思想の湧出がとだえた時にのみ試みるべき」

P12「つまり思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神にははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる」

P16「もっともすぐれた頭脳の持ち主でも必ずしも常に思索できるとは限らない。したがってそのような人も普通の時間は読書にあてるのが得策である」

 つまり、ショーペンハウエルにとっては、「思索」こそが最優先であって、読書は「思索」のための手段に過ぎないのです。それを忘れて思索することなく本ばかり読む者に対し、彼はさらに強くツッコミを入れます。

P129「絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう」

 偉大な知性というものは大体において同じような結論に達するようで、古今東西の偉人も、これと同じような指摘を行っており、例えば孔子論語の中で、

「子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」(為政篇2-15)

などと戒めています。
 さて、こうしたことを踏まえずに、「思索」に向かない頭脳の持ち主たちがこの書を読んで、よく「書を捨てて街へ」だの「読書より経験」だのと言いますが、ショーペンハウエルがその手の戯言を主張しているわけではないことは、

P17「読書と同じように単なる経験もあまり思索の補いにはなりえない。単なる経験と思索の関係は、食べることと消化し同化することの関係に等しい」

との記述からも明らかです。経験も、思索を経ないと何ら血肉にはならないという点においては、読書と何の変わりもありません。ただし彼は、一般に見られる「読書は経験よりも高尚な行為」という思い込みにも以下のように警告を発します。

P16「かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない」

 読書人や「読書が趣味」と自慢する人間に多く見られる傾向ですが、読書という行為が得てして、現実世界と馴染めない人間の逃避場所に過ぎなくなっているという現実を、ショーペンハウエルは決して肯定はしないでしょう。

 では、思索のための読書をするためには、どのような書を選び読むべきか。ショーペンハウエルは次のように答えます。

P133「 したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である」

 つまり、無駄な本が巷にあふれているからそれらをできるだけ読むな、有益な書だけ読め!と助言します。これは、情報過多のネット社会においてはますます示唆にあふれた助言でしょう。問題は、情報(というと語弊があれば知識、教養)が足りないことではなく、無駄で無価値な情報が溢れすぎてその中に有益な情報が埋もれてしまっていることだと言うわけです。これは、ネットが普及する直前に野口悠紀雄が「超整理法」でも行っていた指摘ですが、現代人はいかに情報を収集するかよりも、いかにして無駄な要らない情報を選別しシャットアウトするか、その能力の方がはるかに重要だと言う点には、大いに共感します。
 で、彼のいう有益な書とはどういうものかというと、「古典」なのだということになります。古典は時代の波に揉まれ、時の試練を生き抜いたからこそ古典なのである、だからこそ有益なのである、というのが彼の主張です。実際、新刊の著者が主張しているようなことのほとんどは、かつて「古典」において偉人たちの誰かが主張したことのあるようなものであるに過ぎない、もっと言えば、新刊は古典のコピーであるならばまだしも、多くの場合ただの劣化コピーに過ぎないから読むに値しない物が多い、とさえ言います。それが以下の部分です。

P30「いったい、学問が常に進歩すると信じたり、新しい書物には古い書物が利用されていると思い込んだりするのは、非常に危険である。なるほど新しい書物は古い書物を利用する。だがその利用が問題である。新刊書の著者は古人をあまりよく理解していないことが多く、しかもそれでいて古人の言葉をそのまま用いずに改悪的改善を企てて、彼自身ではとうてい思いつきそうもない古人の言葉、つまり自分の、生きた具体的知識をもとにして記した古人の明言、卓説をそこなってしまう。だがそれだけではない。古人が発見した最善のもの、すなわち適切きわまりない説目や絶妙な意見も、新しい著者はさらに捨ててまったく省みない始末である」

P31「すなわちこのような新人たちがまじめに問題にするものとしては、彼らにとって価値のある私的自己以外に何もなく、彼らが主張したいのはそれだけなのである。ところが彼らが早急に頭角をあらわすさまは一つのパラドックスのようである。つまり石のように不毛な彼らの頭が、立身の方法としてもっとも容易な否定の道を彼らにすすめる。長い間認められて来た真理が否定される」「したがって学問の歩みはしばしば後退的歩みなのである」

 ここで注意しなければならないことは、ショーペンハウエルが「古典」を賞賛する場合の理由は、「素材」ではなく「形式」を重視するためです。これは言い換えると、「知識」や「情報」より「考え方」を重視するためと言ったところでしょうか。

P35「 そこで、ある本が有名な時には素材のためか、形式のためかをよく区別すべきである。
 まったく普通の凡庸な人々でも、その材料のおかげで、非常に重要な著書を公けにすることができる」

 例えば、「天王星」の「情報」について知りたければ、天文学も科学も発展していなかった時代の古典は新刊にかないません。彼が「新刊より古典を!」と言う場合はまさに、哲学を身につける場合を想定しているのではないでしょうか。哲学とは無論、実存主義がどうだとかポストモダンがどうだとかという「素材(知識)」のことではありません。それは「哲学学」に過ぎません。いかに思いいかに考えいかに行動するか、そういう「形式」こそが「哲学」です。さらに彼は、そうした「素材」に目をくらまされ「形式」をおざなりにする読者や著者を軽蔑します。

P36「けれども一般読者の素材に向ける関心は、形式に向ける関心よりもはるかに強く、彼らの教養の発達がおくれるのも実はそのためである」

P38「形式的能力に欠けている者は、何らかの知識によって会話に価値を与える。だがそうなるとまったく素材にたよることになって、次のようなスペインの諺どおりの状況になる。「愚者も自分の家の中では、他人の家における賢者より物知りなり。」」

 つまり、「物知り」を馬鹿にしているわけですね。まぁ記憶だけならコンピュータだって人間よりはるかに上手にできますし、「物を多く知っているだけのバカ」ってのは特に昨今のネットの普及によって2chをはじめとしてMixiあたりにもかなり湧いておりますし、みなさんもいくらでも実際のサンプルをご覧になったことがあると思います。
 その手の連中を実際に見てきたかのように、ショーペンハウエルはこう書きます。

P19「世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威ある言葉を引用したがる。彼らは自分の理解力や洞察力のかわりに他人のものを動員できる場合には心の底から喜びを感ずる。もちろん動員したくても、もともとそのような力に欠けているのが彼らである彼らの数は無数である。セネカの言葉にあるように「何人も判断するよりはむしろ信ずることを願う」からである。したがって論争にのぞんで彼らが言い合わしたように選び出す武器は権威である」「たまたまこの戦いにまきこまれた者が、根拠や論拠を武器にして自力で対抗しようとしても得策とは言えない。この論証的武器に対抗する彼らはいわば不死身のジークフリートで、思考不能、判断不能の潮にひたった連中だからである」

 多分みなさんの周りにも、この手の殺しても死なないゾンビってのは良く見かけられるでしょう。
 この手の連中はまた、簡単なことをわざわざ横文字なんぞを交えて長々と難しく言い立てるという特徴がありますが、そうしたゾンビをショーペンハウエルは以下のようにざっくり切り捨てます。

P63「さらにまた真の思想家はだれでも、思想をできるだけ純粋明瞭に、確実簡潔に表現しようとつとめている。したがって単純さは常に真理の特徴であるばかりか、天才の特徴でもあった」

P69「 たしかにできるだけ偉大な精神の持ち主のように思索すべきではあるが、言葉となれば、他のだれもが使うものを使用すべきである」「大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。しかし彼らのやり方は逆である。すなわち彼らは俗悪な概念を高尚な語で包もうとする」

P74「少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対して、頭脳の卓抜さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである」

 以上、物書きを生業とする僕にとっても耳に痛い言葉ばかりではありますが、読み手も書きても、読書や著作の目的を名誉欲だの金銭欲だのではなく、知性の改善に置く者にとっては常に忘れてはならぬ警句にあふれた書であると感じました。

こんなすばらしい本がランチ一食分で買える日本という国の幸せ