評価B

Dチームに参加させていただいた中宮です。
皆様の多種多様なご意見やアイデアを大変興味深く拝聴させていただきました。
…と言いながら、私の方はかなりズバズバとみなさんのお話を遮って発言したりしましてご不快に感じられた方がおられましたら申し訳ございませんでした。特に、ファシリのほずみさんには色々とご苦労をおかけいたしました。

本の内容自体は、非常にパラダイス的なおはなしが主で、まるで先日初参加させていただき大感動して長文の投稿をコミュにさせていただいたバルガスリョサ「楽園への道」にも通じるような楽園探し的内容でした。それ自体は私も非常に賛同できる未来予想図ですし、速いところそういう未来が到来してくれればいいなとは思います。例えば私は、フリーライター&SEという仕事上家で一人で仕事することが殆んどなため、複数人でオフィスを借りて異業種間コミュニケーションによりアイデアなどのアウトプットを活性化するという「コ・ワーキング」の例なんて非常に興味があります。現在遂行中の自炊プロジェクトが完了して書庫として埋まっている部屋が空いたら、個人的にそのスペースを貸しだしてやってみようかとか考えているほどです。また、洗濯時間を楽しくするコインランドリー「ブレインウォッシュ」も、近所にあれば絶対に行きたいサービスです。特に名古屋は、コメダなどに見られる喫茶店文化が盛んで、朝っぱらから近所のオバチャンたちが喫茶店にモーニング目当てで集まりダベるというのが一般的ですので、このビジネスはかなり有望なのではないかと思いました。
まぁそういう薔薇色な面は、みなさん同様にお感じになられたでしょうし私が言わなくても他の方々が十分指摘してくださるでしょうから、ここでは、本には書かれていない危険性や危惧などについて書かせていただきます。大学・院を経済学部と工学部両方出たもので、どうしてもこの本のそういう触れられていない「アラ」が気になって仕方が無いものですから…。

まず、この本は大前提として、現代社会の価値観であるGDPを基準とした成長主義を否定しています。P275で「だがGDPは、たとえそれがポジティヴなものでも、経済価値のない貢献をあっさりと切り捨てる。その代わり、GDPはネガティブで有害な生産力を反映する」という指摘自体は、経済学的にも全くそのとおりですし、現代の経済学界においては特にその点を反省し、本でも触れられていたアマルティア・センといったような経済学者を中心にして、GDP基準の成長基準をなんとか転換して行こうという動きがあることも事実です。ブータンなんかでは国民総幸福量(GNH)なんて基準が導入されていますし、センの研究でも、GDPが非常に低い低開発国なのに国民の寿命や幸福度などが高いスリランカの例などが報告されています。
しかし、こうした「GDP」やそれを基準にした「成長」を否定する考え自体は、特に先進国においては戦後一貫して存在し時にはブームとしてもてはやされたものですし、そしてそのたびにブームは潰えて挫折し否定されるという事の繰り返しでした(低開発国でそのようなブームは殆ど見られず成長と発展が声高に叫ばれているのは、先進国の人間としては忘れてはいけない事実でしょう)。例えば70年代から80年代にかけて「成長の限界」をキーワードにもてはやされたローマクラブなどは、現代の環境保護運動ロハス運動などの先駆けですし、もっと言えば現代の様々な運動の殆んどは、過去に否定され消えて行ったそうした動きの焼き直しに過ぎません。今日における新しい動きと言えば、「ヴァーチャルウォーター」や「フードマイレージ」などといった「科学」や「数学」を偽装し経済合理性を無視して(実は環境に帰って悪影響を与える)環境保護思想が出てきている点と、もうひとつはこの本のように、インターネットなどのITによって取引費用が低下したことを利用して、過去に失敗したり消えて行った運動を再生しようという点でしょうか。
ここで問題となるのは、ITを利用したからと言って、この本が主張しているような薔薇色なシェア社会が実現するかと言う点です。これについてはまず、GDP・成長否定の観点から見てみたいと思います。
この場合、ソフトとハード(この使い方はIT用語的にも経済学用語的にもちょっとおかしいのですが、分かりやすいので便宜的に使わせていただきます)の二つに分けて考えてみることが重要だと思います。どういう事かというと、例えばこの本で例として出されていたおもちゃや子供服などの「ハード」は、一度に一人しか使えません。いくらみんなで必要なときだけ「シェア」すると言っても、誰かが「シェア」している間は他の人間は使えません(経済学的に言うと私的財に近いでしょう)。一方で、インターネットを利用した音楽や映画などの「ソフト」のダウンロードサービスは、誰かがある音楽をダウンロードして借りた・買ったからと言って、その間別の誰かが借りられなくなる・買えなくなるわけではありません(経済学的に言うと公共財に近い概念かもしれません)。この違いはGDP至上主義的には非常に重要です。つまり、子供服のような「ハード」をシェアしようとすると、生産量が確実に減りますので、GDPも下がります(正確に言うと、確実に下がるわけではなく、「価格が上がるなどしない限り下がる可能性が非常に高い」というのが正しいのですがここでは単純化しておきます)。一方で、CDで売っていた音楽をダウンロードサービスに変えて「シェア」したところで、CDの価格とダウンロードの料金が同じでかつ消費量も変化しないのであれば、GDPが低下することはありません(変化はしませんが、お金の流れは変化します。例えばCDを焼いていた工場は潰れてそこに支払われていたお金が著作権者やネット配信業者などに流れるでしょう。こうした「分配」の変化も経済学的には非常に重要ですがここでは単純化のために省きます)。いや、ひょっとするとCDを置く場所が必要なくなった分だけ、もっと音楽ソフトを購入しようとする人が増え、シェアによってかえって消費量が増えてGDPが増加する可能性さえもあります。つまり、本書の主張する「シェア」は、ハードとソフトではGDPに対してそれぞれ全く逆の方向に作用するわけです。ということは、ハードの「シェア」は実は、シェアなんてしていない多数の人々の従来型の大量消費主義があってこそ初めて成り立つ寄生的なあるいはニッチ的運動という面があり(そういう人たちがいなければそもそも、生産量が減って「シェア」しようとする物の価格が高くなってしまいます)、一方でソフトの「シェア」は、むしろ大量消費自体をすべてやめてしまって完全に置き換えることが望ましいという考察が出てきます。
この点に触れずに、「ハードのシェアもソフトのシェアも両方とも素晴らしい」、「でもGDPは下がっちゃうからGDP至上主義自体を辞めようね!」と一括りにしてしまっているように見えるところが、ちょっと雑に感じました。この点をもっと突っ込んでいれば、「物(ハード)よりも、もっと眼に見えない物(ソフト)を重視する世の中にして行けば実はGDPも上げられるんだよ!」という、シェアに懐疑的な頭の硬い人々をも説得できるものすごくポジティヴな主張ができたはずなのに、と残念に思います。
また、GDP至上主義に関して言いますと、在来型のGDP至上主義を信奉する政治家やそれを支持する国民と、シェア運動及びその支持者・利用者との解離が社会に重大な影響を及ぼす可能性があります。
どういう事かといいますと、前述のとおり、ハードのシェアが進めば消費が減りGDPが低下します。GDPの低下は雇用の低下に直結します。その場合、シェア支持者以外の国民は「成長」を求めます。それに対して政治家がGDPを上げるために出来ることは、公共投資の増額です。日本では道路やダムを作りまくることになるでしょうし、アメリカなら軍事費を増やすことになるでしょう。つまり、シェア運動が進行する途中過程においては、こうした政治家や国民同士の思想的齟齬により、不必要なダムが作られて環境破壊が進んだり、軍事費が肥大化して軍拡競争や戦争につながる危険性さえあるわけです。

もう一つ気になったのは、新たな階級社会が出現する危険性です。この本の中では、シェアの動きが進むにつれ、消費者のネットスキルや対人スキルが非常に重要になるという点があまり強調されていません。例えばアウトプット勉強会という本会を例に取りますと、いくら「デジタルデバイド」を解消するために低所得者にコンピュータとネット接続環境を公費で与えたとしても、その人自身にMixiを利用したりコミュニティを検索してアウトプット勉強会に辿りつけるスキルがなければ本会に参加することはできません。また、たとえ参加したとして、対人スキルの低い人間は自然に排除されていくことになるでしょう。残念ながらこうした低スキルの人々に対して政府や第三者が出来ることは限定的です。義務教育でネットやコンピュータについて全国民に教育するとしても、効果は限定的で、必ずやそこから零れ落ちる人が出ることは明らかです。従来の経済的格差や身分的格差と違い、お金や法的措置による救済には限界があります。むしろ、経済的格差や身分的格差のように「俺じゃなくて社会が悪いんだ!」と誰かに責任転嫁できない分悲惨です。すべて「自己責任」とされるわけですから、言い訳のしようも逃げようもありません。そうなれば、そうして阻害される人々は、何らかの形で爆発する可能性が高くなります。今でさえも「社会的疎外感」から増加し続けている通り魔事件などがさらに激増する危険性があります(本書はネットが社会的絆を強くするという薔薇色の例のみを取り上げていますが、秋葉原通り魔の犯人が、ネットを利用した結果疎外感を増し犯行に至ったとされる例を忘れてはいけません)。

あと、全く別のことで、会においてちょっと出てきた話ですが、評価資本に関する説明がちょっと不十分で、読者を混乱させているように思います。この本が想定している評価資本というのは、例えばヤフーオークションの評価システムのような、「利用者同士」がお互いに評価するというものですよね。そこをもう少し明確化しておかないと、アマゾンの書評のような、利用者が生産者・販売者を評価するという全く別のシステムと混同して読まれてしまう危険性があるように思いました。

私としては、以上観てきたようなデメリットを差し引いても、人類全体としてのメリットは差し引き大きくなるものと考えています。本が電子化され書庫が必要なくなり、共同で仕事場を借りられ、楽しいコインランドリーができるだけでも私にとっては夢みたいなことです。ですが、そうしたメリットばかりに目を向けていたらある日突然戦争が起こされていたり、通り魔に刺されていたりなんてことも起きかねないわけで、そういう点においてこの本のパラダイス的世界観には大いに賛同しつつもちょっと危険を感じました。


ビジネスマンは必携必読。