評価B

当日、タツヤ氏のムチャブリで、参加歴1回だったにもかかわらずいきなりFテーブルのファシリやらされた中宮です^^
同席いただきましたあさぴーさん、カッキーさん、タナさん、maiさん、ゆみてぃさん、ruriさん、りんごさん、ひろしさん、キムさんには、拙い司会進行と何の話にも割って入る強引さで御迷惑おかけいたしました。

ところで最初から唐突ですが、私もフリーライターという職業柄いつも実感していることですし、おそらく本を読んだ時の感動を読書会の場ではうまくアウトプットできずにもどかしい思いをなさっている方々も、あれ?と思ったのがP116のこの部分だと思います。

P116「日頃、アーティストとなにげなく話をしていると、不思議に同じニュアンスの言葉に繰り返しつき当たることがあります。
 それは、こういうタイプの発言です。
 作品作りっていうのは、これだ!というアイデアを思いついた時が最高で、あとは、それを実現するための地獄のような作業が続くだけなんだよね、と。
 こういう話を聞くと、あれっと感じてしまいます。
 彼らは意外と、もの作りが好きじゃないんだな、ということですからね」

これ、非常によくわかりますよね。将来、攻殻機動隊の電脳のようなものが発明されたら、こうした悩みも解消されるのでしょうか。まぁ作品を書いたり作ったり、あるいは考えていることを誰かに喋ったりする「アウトプット」の過程ってのは、思考において非常に重要な役割を果たしているようですので、技術が進んでもそういう過程がなくなることはないのかも知れませんが。

話は前後しますが、今回は「反アート入門」という課題本ながら、私は普段からアートという言葉からは程遠い生活を送っており、美術館に足を運ぶどころか画集は買わない、JPOPさえ殆んど聞かないような体たらくでしたので、若干不安がありましたが、Fテーブルはアートと関わりの深い参加者が半数近くもおられ、非常に勉強になりました。
「反アート」という挑戦的なタイトルから、私には、本書は「既成の芸術・美術の歴史や理論を根本的に論難する内容である」という思い込みがありましたが、実のところ語られるアートの歴史は極めて正統的なものにまとまっていたように思われました。
特に前半のアート通史は、キリスト教に根ざした神を中心とする「美術・芸術」から、P25「近代のアートは「神の死」から始まりました」「だから、近代以前ではアートは存在していなかったと言ってもよいでしょう。それは徹頭徹尾、市民によるものなのです」との記述に見られるような、人権思想や市民社会の確立の歴史とアートが実は、密接な関係にあると言う指摘までの流れは、美術史というものを系統的に学んだことがない素人にとっては新鮮でした。
私のような素人はえてして、アートというものは、なにか先進的・革命的で、資本主義だの人権思想だのといった人類の俗世の価値観やその歴史からポーンとどこか宇宙の彼方に浮かんでいるような地に足が付いていない浮世離れしたもの、と思いがちですが、そうではなく、あたかもマルクスが経済の下部構造は、政治や思想などの社会の上部構造を決定すると指摘したように、アートも実はそうした人類の生臭い営みである下部構造からは切っても切り離せないものなのだという本書の指摘は、かなり斬新に聞こえました(芸術・美術史においては当たり前の考え方のようですが)。このあたりは、昨年11月に私がアウトプット勉強会にて参加させていただきました、岡田斗司夫「ぼくらの洗脳社会」や今年1月のレイチェル・ボッツマン;ルー・ロジャース「シェア <共有からビジネスを生み出す新戦略>」にも通じる考え方として、非常に興味深かったです。
これに関連して、みなさんからのお話で参考になったのが、アート関係者の方々の、「自分が美術館に行く理由」のおはなしです。特にキムさんやタナさんがこれについて熱く語っておられました、「自分のスイッチを入れてもらうため」というお話は、本書の繰り返す「アートは浮世離れしたものではなく、社会や個々人に密接に関連した実践的なものである」という主張を地で行く姿勢であったと思います。
私のような素人の考えだと、例えば美術館に収蔵されている「作品」というものは、世俗とは何ら関係を持たないところから孤立して独自に発生した思想や価値観を具現化したものであり、それを「見る」という行為は、自分や世俗の社会にはもともと存在しなかった異質の新思想や価値を探しに・取り入れに行くことなのだ、と思ってしまいます。
ところが、そうではなく、すでに個々人や世俗の社会に存在するのだけどそれがなんなのかよく分からない、いや、存在するのかしないのかも分からない、何かモヤモヤとした悩みというか葛藤のようなものを、「作品」という形をもってして「見る」人々や社会に「気付かせてくれる」。「そうか、自分が釈然とせずにいたものに対する答えはここにあったのか!」とか「自分がずっと悩み探し続けていた問に対する答えはここにあったのか!」といったように「発見」させてくれるような一種の触媒的存在なのだというお話には、目からウロコがポロリでした。
作品の鑑賞の仕方としては、ruriさんの、「絵画そのものはもちろんのこと、その額縁にも注目している」というお話も非常に参考にさせていただきました。本書の中でも、P148においてジム・ショウの、「<スリフト・ストア・ペインティング>と呼ばれる連作」のお話が出てきました。これは、「彼の手で描かれているわけではありません」「本人がある観点から集めた絵の総体を指すシリーズなのです」と書かれているように、すでにある作品、誰かが作った作品を、ショウが「コレクション」することによって、その収集と展示の仕方自体が「作品」になっているという特殊なものですが、ある意味ruriさんが額縁に注目するというお話も、これに通じる所があるのではないかと思いました。絵を描いた作者とは全く別の後世の職人あるいはアーティストが、所与の「絵画」を材料として「額縁」という部品を付け加え、「絵画+額縁」という新たな完成された作品を作り出す、という一種の時空を超えた「合作」。発明とか発見、新発想や芸術文化をえてして「100%一個人の頭脳から生み出された物」と考えがちな中で、こうした「過去の歴史や人々の成果の上に今の我々がほんの少し何かを付け加える」ことの偉大さと重要性を再認識させられました。
またこれに関連し、近現代のアートなるものの出自が実は、「神の死」と密接な関係のある市民革命や人権思想に根ざしたものであり、アートに「天才」を求める姿勢の邪道さを繰り返し指摘していた点も、私のようにアートなるものを崇め奉り、天才だけがアートを動かすのだと考えがちな素人には、実に新鮮でした。特に、P213の以下の部分はキムさんが開催時間前から熱く語っておられましたので、特に引用させていただきます。

P213「 美術は、近代的なシステムのもとでは十分に教育が可能なのです。もっと言えば、学校教育が可能となることによって、美術ははじめて近代化されたのです。
 にもかかわらず問題なのは、現実の学校での美術教育がそのようにシステマチックには機能しておらず、むしろ前近代的な無形の才能(天才)の発見というような次元にいまだ、理想を置いているということなのです。
 しかし、現実には天才などは滅多におりません。にもかかわらず、マスプロ化した教育制度の中で、万人が天才であるかのように扱われているとしたら、そちらのほうが大きな問題です。むしろ重要なのは、ある意味、平凡な知識の伝授と技術の習得です。ただし、技術の習得といっても職人的なものではありません。最低限の技芸です」

さて、こうしたある意味「反」などではない正統的なアート史を概観した前半に比べ、後半は西洋アートとそれ以外の(特に日本の)アートとの対比や、それに関する著者の思想が色濃く出ている内容のため、皆さんからも非常に分かりにくいという感想が多数出されました。特に、ハイデッガーを絡めたお話は、ちょっと難解だったと思います。ただ、サルトルのような「天才」や「英雄」に重きをおいた思想家と対比して、ハイデッガーはもっと「普通」とか「ありふれたこと」に重きをおいていたのだと(私なりの非常に雑な区分けですが)解釈してP293とP295の以下の部分を読むと、前述のP213における「天才」の扱いと絡めて、かなり分かりやすくなってくるのではないかと思います。

P293「 興存在の「隠れ・なさ」とは、わかりやすく言えば、ただ単に目の前にものがあるということです。それがペンであるか辞書であるかコンピュータであるかという個別なことに先立って、とにかくそこに「なにかがある」という感覚のことです。ではなぜ、それを「ある」と言うのでは足りず、「隠れ・なさ」と呼ぶのかというと、それは次のようなことです。
「ものがある」というのは、そこに「なにかがある」ことの確認でしかありません。それはそれで疑い難い驚きですが、ここでわたしたちが直面しなければならないのは、「ではなぜ、ものがないのではないのか」という、さらに根源的な驚きのほうなのです。そのためには、「ものがある」だけでは、足りないのです」

P295「 ハイデッガーによる、こうした世界の「隠れ・なさ」への驚きは、わたしたちが「山」のなかで突然、奇岩や奇石に出会った時の原初的な感覚を、とてもよく言い表しています」

まぁ私もまだまだ理解が足りないようですので、もう一度本書を読み返して勉強させていただこうと思っております。